医師の留学にはいろんなパターンがありますが、自分はTTTSという疾患をなんとかしたい、という一念で決断しました。当時は国内では研修できなかったので自分はフランス語なんて一言もしゃべれないのに、パリ行きを決めました。日本にVille先生が講演に来られた時に先輩の村越先生(聖隷浜松)に紹介していただきご挨拶したのを縁に自分でメールし、留学が決まったのです。当時、大学病院は移転の作業のまっただ中で助手であった自分の留学の費用は出してもらえず、全くの私費留学でしたが、自分はなぜか何とかなる、と楽観的でした。その反面、小さな娘達をかかえ妻は悲壮感がただよっていました。引っ越しもすべて自分達でおこないましたので、パリについたときの出で立ちはそれはそれはおそろしい感じだったと思います。子供達は予算の都合で現地の幼稚園、小学校に入ってもらいました。言葉の分からない我々は、現地の日本人の方々にも大変お世話になり、“生きる”為の援助をいくつもしていただいたのでした。自分では「3Kなし」と言っていました。すなわち、金、携帯、車のない生活でした。娘達がケーキのアーケードの前で食べたいね、って話しているのをみて正直心で泣けてきました。家族も海外生活の言葉の壁からつらい思いをいくつも経験し、必死に耐えてくれていました。
留学先の病院では当然据え膳ではなく、まずは小さなロッカーひとつから始まりました。自分で動かないと、自分のその日行くところ、など有りはしません。日本では大学病院の助手でしたが、こちらではフランス語がしゃべれない研修医以下の存在なんです。そのギャップにかなり苦しみました。そこでも明るいブラジル、チリ、イタリア、ドイツなどの仲間に助けられ、なんとか逃げ出さずに勉強を継続できました。徐々に実力が認められますと少しずつ仕事が増えてくるものなんです。毎日2-3件ある胎児鏡手術、術前、術後評価のエコー検査が日課となりました。自分の仕事があることの嬉しさ、をこんなにも実感できたこと、今でも覚えています。そうして研究テーマが与えられ、そしてついには有名なレーザー治療のRCTのカルテのデータベースを作る仕事をまかされ、仲間とofficeももらえました。そこで手術や検査がない時間は夜遅くまでデータ解析と論文の準備をする日々がやってきたのです。そこまでになるのに半年かかりました。当初、言葉の壁や待遇のギャップになやみ、うつむいて生活していたのですが、徐々に胸をはって仕事ができるようになりました。家族も、後半は帰国したくない、というまでになりずいぶんたくましくなったものだと感心していました。帰国後、周囲のサポートを得てレーザー治療も軌道にのせる事ができ、今に到ります。
こんなフランス留学でしたが、いつも自分が若い方にお話するのは、留学、海外ありきではないということです。自分の目の前の解決すべき難症例や問題にたいして突き詰め、その結果が海外留学なら遠慮せず海外に跳べばいい。お金や語学力なんかは気にせず、その崇高な目的のために飛躍してもらいと思っています。
そして現在、当時自分が研修した方法論、技術、そして症例経験すべてにおいてフランスまで行かなくてもこの岐阜の地で研修できる病院を作ってこれたのが密かな自負、誇りでもあるのは言うまでもありません。
JAOG 勤務医ニュース 平成28年1月1日号
http://www.jaog.or.jp/medical/ikai/project03/JAOG_info70-L.pdf