LAドジャースで野茂英雄投手の大活躍が日本でも大ニュースになっていた1995(平成7)年9月にM.D.Anderson Cancer Centerでの3年半の留学生活が始まりました。アメリカにも伝播した、たまごっちやバイアグラの発売などもこの留学期間中のことで、どちらの商品も日本では入手困難で、知人や悪友?から「送ってくれ!」と頼まれたものでした。
その年の春、臨床をしながらの大学院を修了し、日雇いの医員として大学病院勤務していたのですが、英会話は超がつく程苦手な自分は、留学など大それたことは目論んでおらず、オーベン(指導者)の今井篤志先生の半ば強引な勧めによって留学することになってしまったのです。救いは、似たような状況だった1学年先輩の大野元先生が、つつがなくバンクーバーでの留学生活を送っていたことでした。
不思議なもので、ようやくデータもまとまり論文も完成し、「そろそろ帰ろかな?」という頃になってきますと、最初は全く乗り気でなかった留学なのに、「諸事情が許せばもっと居たかった」と思えてきてしまったものです。
この文章を読んで、将来の選択肢の一つとしてその動機ななんであれ「留学もあり」と思ってもらえれば幸いです。(以下は時間があればお読みください・・)
テキサス州に関しては、砂漠とサボテン、カーボーイというようなイメージしかなく、NASAで有名なヒューストン市がテキサス州にあることも知らない状況でした。テキサスはアラスカの次に面積の大きな州で、日本の2倍弱の広さです。ヒューストンは、テキサス州の南東部(メキシコ湾側)に位置し、砂漠というより、高低のない広大な亜熱帯の森林といった正反対の土地でした。
飛行機を降り立ったら、夜の9時過ぎにも関わらず外は湿気をたっぷり含んだ熱風で不快指数100?という感じで、最初から不安が増幅しました。
住めば都と言いますが、石油産業で豊かなヒューストンは全米第3位の大都市で、風光明媚な観光地ではないものの、緑も多く、暑さにある程度慣れれば生活するには非常にいい土地でした。
M.D. Anderson Cancer CenterのあるTexas Medical Centerは、Wikipediaによると「世界最大級の医療研究機関の集積地」で、実際に一つの大きな町全部が病院、大学、研究所やその関連施設といった、いかにも”アメリカン”なスケールで、最初から驚くことばかりでした。
Gordon B. Mills教授のDepartment of Molecular Oncology (Ovarian Cancer Laboratory)では、Lysophosphatidic acidを中心とした脂質性増殖因子の作用における情報伝達機構、分子生物学的解析などに四苦八苦することになりました。研究室には、大ボスで腫瘍マーカーのCA125で有名なRobert B.
Bast Jr.教授の研究室も入り混じっており、カナダ人、アメリカ人、中国人、インド人、ドミニカ人などがおり、いわゆるBig Laboでした。二人のボスの人柄なのか、人間関係は良好で、つたない英語で訳のわからない会話をする日本人もいじめられることはなく大きな顔で過ごせました。ここで身につけたことは、「正しく綺麗な英語は不要である」、「とにかく必死で伝えること」でした。
当然日本と異なり臨床業務がないため、研究室では休日、深夜問わずに研究をする毎日でしたが、なかなかいいデータがでず、ボスが顔を合わせる度に、「anything interesting?」と言われることは非常にストレスでした。
またボスの計らいで、Department of Gynecologic Oncology のカンファレンス、Gynecologic OncologyのボスのDavid M. Gershenson教授の外来と手術を週に1回見学させてもらうのもいい気分転換と勉強になっていました。
そんな留学生活も1年半頃過ぎた頃に、メディカルセンター内にある病院で長男も生まれました。実際のアメリカの医療制度に触れることもでき、合理性に納得することや、行きすぎた合理性に首をかしげることなど、とてもいい経験でした。
研究室にこもってばかりいたわけではなく、時間を見つけてヒューストン近郊やダラス、サンアントニオといったテキサス州内や隣の州にあるニューオーリンズへの旅行など、とても印象深いものでした。また、セミナーのついでや、まとまった休みにはサンフランシスコ〜ロサンゼルス、ラスベガス、デンバー、オーランド、ニューヨーク、果てはメキシコのカンクンなどにも足を伸ばすこともできました。
この3年半の間の研究生活、日常生活に加え、多くの人種や文化的背景の異なる人たちとの貴重な出会いや経験とともに、日本人との出会いや海外にいて感じたり考えた日本についての様々なことなどと、非常に多くのことが今の自分にとって非常に大切な財産となっていることは間違いありません。
このような経験のきっかけを与えてくださった今井先生、2度にわたる期間の延長を快く許してくれた故玉舎教授や医局の先生方、そして留学生活を支えてくれた家族には本当に感謝しています。